梨本塾って何するところ?
一日中、目一杯バイクを楽しむ場所。それが梨本塾です。
■ 梨本塾は、バイクに乗っている方であればどなたでも楽しく走れるバイクスクールです。
その大きな特徴はまず下記のようなものです。
- 不要な先導走行、講義カリキュラムを一切組まず、フリー走行主体であること。
- 常にスタッフがコース全域を見守り、少しでも危ない方が入ればピットイン指示をしてアドバイスする。
- 初心者の方には公道走行の心得、サーキット走行のイロハから膝スリ、バイク操作の基本を。
- 上級者にはより高度な走り方、マシンのハイレベルなセットアップアドバイス、そして他のサーキットの走り方を伝授。
- 梨本塾最大のモットーは、転ばせない、急かさない、そして無理させない、です。
- もしも参加に不安があるなら、まずはこちらをご覧下さい。梨本塾はどなたでもご参加いただけます。
ショートサーキットだからこそ、学べる、遊べる、楽しめる。

対向車や歩行者、交差点など余計なマテリアルの存在しないクローズドサーキットで、しかも自分一人で集中して走るからこそ、しっかりとしたライディングスキルは身につきます。例えばあなたは、教習所や他のスキルアップスクールなので「何度も止められて同じこと言われた」り、「何かをトライしようとすると止められた」りしたことはありませんか?
梨本塾では、そういったことはけしてありません。あくまで自己主体性を尊重し、その人の個性や感覚を信じて、じっくりと見守ることから始めます。その上で危険が及んだり、或いは助力を求められたときだけ、適切なアドバイスをいたします。まずはしっかりとその時点での個々のベストパフォーマンス、そして最大限の集中力を発揮した上での走りを拝見し、その上でどうやってステップアップしていくかをお互いに考えていきます。

フレディ・スペンサーやバレンティーノ・ロッシであろうと、初めから速い人はいません。もちろん「怖い」と感じない人もいないでしょう。同様にバイクに跨った乗った瞬間からうまい人もまた、いないのです。2000年に始まった梨本塾には、これまで実に多くのライダーに参加していただきました。その中には最初からトミンモーターランドで27秒台を出す人もいれば、40秒を切れない人もいました。しかし「それでもまったく問題ない」と塾長の梨本圭は言い切ります。「それぞれのレベルやスピードで、一日中バイクで楽しんでもらうのが梨本塾設立当初からの目的です。絶対速度、ラップタイムが速いからといって、人間的に偉いわけではない。それよりも個々のスピード、感覚で、バイクを最大限に、他者を尊重しながら安全に楽しんでもらうことが、もっとも重要だと思っています」そう断言します。

塾長を務める梨本圭はこれまでの数々のレース経験を生かしてサーキット走行を見守るのはもちろん、さらに同じくらい走ってきた国内外公道での数多くのテスト経験を生かし、あくまでアマチュアライダーの目線で、OEM車輌(通常販売車輌)に合わせた適切な指導、そして独自の分かりやすい理論を展開します。これまで跨ってきたバイクは優に500台を優に超え、さらに21世紀に入ってからのスーパースポーツに関しては、その正確なインプレッション、互いのマシンの相互関係、それぞれのマシンの実測値(実際に計測した馬力やトルク、装備重量など)など100台以上に渡るマシンのデータを詳細に把握しています。述べ参加人数で4000人を超える梨本塾においても、とても才能に恵まれたライダーから、サーキット走行もヒザスリもしたことがないライダーに渡るまで、それこそ初めは手弁当から初め、私物のツナギを貸し出し、これまで10年以上に渡って幅広く見守ってきました。だからこそ「人にバイクの乗り方を教えるということに関しては、強いこだわりがある」と言います。

より安全に速く、そしてもちろんカッコよく走る―。これがライダーの大きなテーマのひとつではないでしょうか。よく「バイクによる転倒はしょうがない」という話がありますが、梨本塾ではそのように考えません。なぜ転んだのかを徹底的に考察し、そして同じミスを繰り返さないために、参加者の皆さんとディスカッションします。仕事や学業を抱えながら、バイクを長く楽しんでもらうためにはどうすればいいかを、梨本塾ではいつも真剣に考えています。安全に速く、そして何より楽しく―。これが梨本塾にとっての最大のテーマなのです。マシンやタイヤのチョイス、アフターパーツのセレクト、足廻りに始まる各種セットアップなど、塾長梨本圭の豊かな経験から導き出される独自のアドバイスは、街のバイク屋さんではなかなか判断のつかないバイクの本質的な要素にまで言及するのものです。「製造者や販売者ではなく、いつでも乗り手目線で考える」というのは、長年バイクを人一倍楽しんできた梨本圭だからこそのフィロソフィーです。
梨本塾のメニュー
午前 8:30〜 | 受付&ブリーフィング(ルール確認など) |
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午前 9:30〜 | クラス別でのフリー走行x2本 |
午後 12:00〜 | 昼食 梨本塾特性お弁当 |
午後 12:45〜 | クラス別でのフリー走行&タイムアタック |
午後 13:40〜 | 予選結果発表 休憩 おやつタイム |
午後 14:00〜 | K-RUN-GP (模擬レース) |
午後 15:00〜 | クラス別でのフリー走行 |
午後 16:00〜 | 表彰式 |
※ タイムスケジュールはあくまで目安です。確定版は当日配布するものをご参照下さい。
トミンモーターランドコース図

茨城県かすみがうら市にあるトミンモーターランド。一周550mほどのショートコースですが「ここでしっかりと走れれば、筑波やもてぎもちゃんと走れるようになる。その逆はない」と塾長梨本圭は言います。「バイクを走らせる上で、基本的にマスターしておきたい要素がコーナーごと、レイアウトにもたくさん詰まっている。これを丁寧に何周も繰り返し行うことで、確実にライダーのスキルレベルは向上する」梨本塾を開校した頃はほとんど認知されないローカルなミニサーキットでしたが、今では様々なイベント貸切などで賑わいます。もちろん普段のスポーツ走行も人気があります。梨本塾はここでじっくりと歴史を重ね、様々なライダーと出会ってきました。梨本塾から全日本や地方選手権へと巣立っていった選手もいます。 >>参考 塾長オンボード周回ムービー
梨本塾開催要項
- 開催場所 トミンモーターランド 茨城県かすみがうら市西成井280 >>コース、地図等はコチラ
- 開催日程 基本開催は月末日曜日。但し例外的なものもあり。 >>本年度開催日程はコチラ
- 参加資格 自家用バイクをお持ちで、該当する運転免許証を保持する方。心身ともに健康な方。
- マシンは道交法に合致したもの。トミンモーターランド騒音規制値に合致する車輌でなければならない。
- 参加基本料金 20000円 ※ 但し耐久など特別価格開催、各種割引もあり。 >>詳細はコチラ
- 申し込み >>このページの申し込みフォームより必要事項記載の上送信。指定口座への入金で完了。


梨本 圭(なしもとけい)
MFJ国際ライセンス、MFJインストラクターライセンス。レーサーとして、モーターサイクルジャーナリストとして、そして梨本塾塾長として、バイクと長年携わってきた。現在は月刊モーターサイクリストのメインテスターとしてニューモデルのテスト、及び長期連載となっている「エッジで走れ」でのテスト、執筆などをこなす。その正確なインプレッションと鋭筆には定評がある。
>>梨本圭の面白ヒストリー、続きはこちら / >>梨本圭ブログ 東京スピード

マスターバイクで行ったユーラシア大陸西の果て、スペインアンダルシアはヘレスにて。オリオール・フェルナンデス、ユルゲン・フックス、ボリス・シャンボンらと。
Kei 74moto It`s a Funny story

梨本 圭(なしもとけい)面白ヒストリー
1970.10.1東京生。16歳で免許取得後、しっかりと交通事故で右足大たい骨を骨折した後に、船館や夢の島、13号埋立地、水元サンダーロードや奥多摩など関東近郊での公道修行を経てミニバイクレースに出場。すぐに常勝となり、88年筑波選手権SP250クラスにデビュー。当時災難関といわれた台32x15組以上の予選を、全体3位で通過して見せた。高校卒業後は三重県鈴鹿に渡り、ノービスでは鈴鹿四耐、ジュニアでも鈴鹿六耐などで活躍。同時に国内A級250ccクラスでプライベーターながら頭角を表し、92年国際A級昇格。93年GP250クラスにおいて、全参加者中唯一人の型落ちレーサー(92年型RS250)でポイントゲットを達成。とび職をしながら雨の鈴鹿で得た本当に貴重なポイントだった。94〜96年はモリワキクラブに在籍、NK4というカテゴリーではハンディウェイト15kgを積んでも無敵を誇った。当時の非公式コースレコード、モリワキCB400SFによる鈴鹿サーキットフルコース2分21秒台というタイムは、これまで誰にも破られていない。また、このとき導入された「勝利者車輌買取制度」によって、実に7台もの自分のバイクがレース終了直後に買われてしまうという悲劇を味わう。この販売台数も買い取り制度導入後のブッチギリのレコードとなった。
この頃よりミスターバイク誌にてコラム等の執筆活動も開始。当時出場していたNK(ネイキッド)シリーズにちなんで、コラムの名前は「素っ裸で行こう」だった。その破天荒な乱筆っぷりに賛否両論、多数の読者から苦情が寄せられるという大反響を得た。同じ頃、鈴鹿サーキットでレース終了後にメインスタンド前でゲリラバンドライブを敢行、身内だけで盛り上がって大ヒンシュクを買う。ちなみに曲目はハイロウズのミサイルマンだった。96年夏には正式に鈴鹿サーキットから依頼を受け、NK4耐ニ連覇後の表彰台でまたしてもライブを敢行、曲目はアトミックスウィングのトウー・レイト・トゥー・エキジット、ピストルズのゴッド・セイブ・ザ・クイーン、オアシスのワンダーウォールなど、どれも当時の鈴鹿で知っている人はほとんどいない曲目ばかりを選んだ。そして最後の曲は、ハイロウズの「日曜日よりの使者」。数年後にツリンリンクもてぎやホンダのCMでよく聞くようになると「自分が一番最初にメジャーにしたんだ」と豪語して憚らない。実際、このライブを行ったときは聴衆のほとんどが最後のシメで歌ったこの曲を知らず、どっちらけで終わった。同時に、二度と人前で歌は歌わないと誓う。97〜98年はモリワキにてSBKに跨る。初戦の鈴鹿ではワークスがひしめく中で9位と幸先いいスタートを切ったものの、その後にマシンをRVFからVTR(SP1ではなくF)へと乗り換え、そのテスト中にエンジントラブルで鈴鹿3コーナーで大クラッシュ、今度は左の大たい骨骨折を負う。当時三重県では名医といわれた糖尿病の医師の手により手術、しかし術後経過があまりに悪く転院、当時バイクレース界に新風を巻き起こし始めていた名医、村島先生に診てもらうと、信じられないような医療過誤が発覚。リハビリもままならないときに大たい骨に当てたプレートは折れ曲がり、6本のビスは骨の中で折れてしまい、数ヵ月後に結局再手術、半年以上バイクに乗れない日々を送る。医療訴訟も視野に入れたが例え勝訴しても結局は医師会から弁護士に金が流れるだけだと気付いた頃には、最初の執刀医である糖尿病医師は死んでいた。ちなみに村島先生による二度目の手術は完璧だった。この下半身麻酔で挑んだ人生四度目の大手術は、医師のご配慮によりオペ室に三面鏡を持ち込んで一部始終を拝見することとなった。「そうしやな納得いかんやろ」とは村島先生の言葉。
怪我の癒えなかった98年は低迷するも、9月にはフランスに渡り伝統のボルドール24時間耐久レースに出場。しかし前年大たい骨骨折のきっかけとなった愛機VTR1000Fは、レース開始ほどなくして今度は6速が破損、2km超にも及ぶポール・リカールサーキット名物のミストラルストレートを20時間近く5速で走り続けるという悲運に見舞われ、CBR600にさえ直線で負け続けたが、奇跡的に完走を果たした。雨中の明け方にはワークスを凌ぐタイムを連発して大きく順位を引き上げることに成功した。チームはスペインとの国境に程近いピレネー山脈にあるプライベーター、top moto。別れ際にここの社長であるフィリップに当時のトレードマークであったスペンサーヘルメットを渡すと、人目を憚らずに男泣きしてくれた。バイクの用事でビジネスクラスで海外に行ったのもこれが最初で最後であり、またウィークを通じてパドック内で食べ続けた本物のレストランシェフが作ってくれるケータリングフランス料理のうまさは、忘れられない。レッドワインを飲むようになったのもこの頃から。フィリップとは今だにfacebookなどでつながりがある。
99〜00年は鈴鹿8耐連続9位。99年以降、月刊モーターサイクリスト誌にテスターとして起用され、様々なテスト、及びインプレッションやコラムなどを執筆。当時始めた「エッジで走れ」では、それまで完全に二輪業界でタブー視されていた「必ずすべての車輌のパワーチェック、及び装備重量、ラップタイムの提示をする」ということを断行、この結果2009年度には単行本化されるほどの人気となり、現在も同誌にて連載が続いている。00年以降は雑誌テスト等で海外テストにも積極的に参加、中でも欧州で一大イベントであるマスターバイクスペインには00〜10年まで毎年のように参加、世界20カ国のトップレーサーが集まる中で、常に上位6人のファイナリストとなる活躍を見せてきた。ここでの渾名は[Kei]そして[Nasty moto]。後者はサイクルワールドのアメリカン、Mark Cernicky(マーク・サー・ニッキ)をヘレスの最終コーナー飛び込みでぶち抜いた後に命名された。01年飛び入り参加の日光レースでの劇的な逆転優勝、04年塾生のストックGSXR1000を拝借して出場したもてぎロードレース選手権でも最終ラップ劇的逆転優勝など、常に勝ち方にこだわり、見るものを感動させるレースをするのが身上。バイクをほとんどチューニングせずにレースするのもオリジナルスタイルといえる。05年全日本選手権MFJスーパーバイクに復帰、同年鈴鹿8耐にはケンツより出場、6時間経過時点までに、プライベーターのノーマルスリック装着車輌としては驚異的といえる3位まで浮上するものの、タイヤトラブルで最終コーナー転倒というこれも記憶に残るレースを展開した。06年もてぎロードレース選手権オープンマイスタークラスランキング2位、07年同チャンピオン、同年もて耐には梨本塾塾生と組んで出場し、悲願の3位表彰台を獲得した。梨本塾の開校は00年より、当初は福島県のエビスサーキットにて始まったが、すぐにトミンモーターランドへと場所を移し、これまで述べ4000人以上の個性豊かな塾生と接してきた。
「どんなライダーでも、必ずうまくなれる」
ということが梨本塾での身上。教えることを諦めたことは今まで一度もない。なお、オリジナルレーシングスーツに入ったトレードマークともいえる赤いバラは、昔ツナギの腕に「THE BLUE HEARTS」と入れていたことに由来する。当時大ファンであった本人は、その後雑誌企画にて甲本ヒロト氏と対面、対談し、一緒にミスターバイク誌の表紙を飾った。当時のブルーハーツの代表曲のひとつ「情熱の薔薇」が原義である。
趣味はゴルフ、マラソン、釣り、読書。 >>梨本圭ブログ 東京スピード
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