梨本圭 プロフィール

特性 2スト。たまにディーゼル、動物占いライオン

最大出力 右70、左60、真ン中50、視力低下気味。O型

仕事 四季折々、時価。色々とやってます。依頼はコチラまでstd_spd@hotmail.com       

遊び        生活全般

特技 バイク、サッカー、バスフィッシング、ピアノ(はまだ特技ではありません)、バー、居酒屋迷店探し、俳句

焼酎嫌い。後は全部大好き→2004年現在、焼酎が好きになってしまった……

タバコ セブンスター、屋外禁煙法大反対、機内禁煙は許す

トラブル過多

バクチ しない

長渕剛・ザ・ブルーハーツ・キク・寅二郎・船館・氣志團

車歴

(自家用) タクトフルマーク・スカイR・VT250F
NSR250(‘87)・ハイ・DJ1・DJ1R
DJ1RR・スティード600・XR100
ジョグ・CB250RSZ・CBR929RR・FZS1000

(レーサー) NSR250SP−2仕様(‘88’89)
RS250(‘87‘88‘89‘90‘91‘92)
CBR400RR(‘89‘90)
NSR250F3(‘92)
TZ250(‘92)
RC30・RVF750・CB400SF
CBR600F・CB1000SF
RC45・VTR1000F・RVF(ワークス)TSRーAC等


1970 東京下町に生まれる。両祖父は海軍人と画家というあまりに両極端な構成。
それぞれの、心に残る名言。
『俺は圭だけが好きなんだ、ヒョロヒョロはダメだ』
そのヒョロヒョロの弟のいる目の前での発言。(軍人)
『はなくそってなそんなにうめえのか?よし、俺も食ってみよう』
六歳当時の俺のおやつを見て。(画家)

1978 初サッカー。中学三年まで続ける。成績は全国大会にやっと届くレベル。ポジションは当時で言うハーフ。ブラジル留学はびびって断念。三菱養和にも入る。

1979 初バイク、XR75に乗る。サッカーの試合でハットトリックを決めた時の約束褒美だった。
クラッチミートはなんとかこなし家の前を出発、しかし次の交差点、左に曲がる際、
ハンドルを左に切るとアクセルに手が届きにくくなりアクセル操作不能、暴走。
不安そうに見ていた母親のとっさの手助けで救われる。親父はヘラヘラしていた。

1985 中三。初GSX1100R。近所の族が盗んだものを拝借。国4でオーバー200を知る。超速超風。

1986 初免許。川口で自動二輪免許取得。埼玉は都内よりもひと月早く免許取得が可能だった。
教官(ホークU)と自分の教習者CBR−400Fでバトル。なんと教官転び、勝つ。小説みたいな話だが実話。

1987 初事故、初骨折。NSR250にて交通事故、右大腿骨骨折。たまらなく痛い。8:2で車が悪かった。初入院、好きな看護婦(確か高谷さんという名前)から初剃毛、死にたくなる。ちなみに入院2ヶ月、しかし留年は免れる。(実はこの時はまだ、成績がよかった)復活後、親父のタクトフルマークで初膝すり開始、初ドリフト走行、初船館。すぐに最速になる。原チャリレースにも自走出場。ハートランドでは無敵、しかし新東京では青木三兄弟やダイジロー、菅谷慎一等に歯が立たない。だってあいつら体重軽いし免許ねーのにトランポだしさ〜むかつくガキだったな。ダイジロに勝って表彰台に上がった写真もある。ちなみにダイジロはベストを着ていた。ラジコンみたいなガキだった。

1988 初レース。初出場筑波SP250で予選3位、決勝5位。ちなみにこのクラスの出走台数は500台オーバー。倍率は20倍近かった。下手な大学受験以上の確立でかなり自信を得る。最高に怖かった体育の先生をサーキットに呼ぶ。そこで手なずけることで以後ハカライを多少受ける。一方成績はガタ落ち。学年十位以内からクラスでビリから5番以内に落下。進学はせず、レースで食っていくと決意。学年主任と校長に直談判、レース欠席は就職活動扱いとなる。それをいいことにサボり連発。デートに当てる。

1989 鈴鹿移住。初一人暮らし。初鈴鹿4時間、CBR400RR、チームブルーフォックス。ラスト20分までぶっちぎりトップ、しかし相棒が転倒。未だ恨んでいる。優勝はビートZX4。

1990 初鈴鹿6時間。with武石伸也、チームブルーフォックス。ラスト1時間まで5位、メタル焼き付きリタイヤ。

1991 初プライベーター(ブルーフォックスが気に食わないので辞める)初肉体労働、初とび職。
ジュニア250でたまにトップを走る。当時同じクラスに宇川や松戸直樹がいた。

1992 初国際A級。IA250にRS250でエントリー。とび職。その親会社にスポンサードされ多額の現金を得る。時代はバブル完全崩壊直前、金銭感覚狂う。初8耐。予選で相棒が転倒、骨折で本戦を前にリタイヤ。しかし予選でスペンサーと走る。感銘、感動、何かが閃く。
レーサーの同僚がユニコーンの同級生で彼らが菅生に応援にきた時奥田民生にサインを貰う。サインしてもらった場所は、当時の愛車マセラッティハイエースの天井裏。
シュガーボーイか逆光かなんかを挑発的に口ずさんだのだが、民生氏は苦笑いだけだった。

1993 初国際A級ポイントゲット。雨の鈴鹿200キロ、型落ちRS250でポイントを取る。国際A級で、型落ちで走ってタイヤは1年前の大古を使ってるバカは俺だけだった。かなり喜ぶ。初マイチーム「YET2RACING ZEALS」結成。通称「イエット」

1994 初NK4出場。優勝3回、耐久レース初完走(NK4)モリワキレーシングより。イエットの舎弟分がレースで死んでひどくショックを受ける。セナも死ぬ。レース関係者の死が相次いで、初不安定になる。不整脈が出たりする。人材派遣会社にバイト勤務。様々な職に就く。 鈴鹿の族の元特攻隊長なんかとバス釣りをはじめる。琵琶湖で一日に50匹上げ、激ハマる。

1995 初チャンピオン、初耐久優勝(NK4)。初鈴鹿8耐完走入賞(11位with宮城光、RVF750)連動ブレーキ仕様→実はXX先行開発だった?)モリワキ。初アメリカ旅行、初アメリカバスゲット(アリゾナルーズベルトレイク)。初ゲリラライブ敢行。レース後鈴鹿の表彰台上にてハイロウズのミサイルマンをやる。もちろんドラムもギターもベースもいた。
ミスターバイク誌に『ブルーハーツ引退について』というタイトルで投稿。それを見た関係者の協力で甲本ヒロトとの対談が成立する。この年名古屋のライブハウスにハイロウズコンサートに出かけ『今日はレーサーの梨本圭くんが来ていまーす』と甲本ヒロト氏自らに紹介される。
もう、死んでもいいと思う。初バイクバスフィッシング大会主催(琵琶湖)3位になる。

1996 初レースボイコット、しかけるも審査委員長が涙ながらに訴えるので俺も泣く泣く出場(NK4)。
NK4耐二連覇など達成するがこの年はまったく面白くなかった。鈴鹿暮らしに飽きていた。
初小説執筆。タイトルは『ルーク・ウォーム・サーキット』400字詰め300枚。
10月、群像新人賞に応募。当然落選。しかし入選した奴よりは絶対に面白かった。

1997 初全日本スーパーバイク参戦。初戦9位(RVF750)。途中でVTR−Fに乗換。激遅。後、
テスト中バルブ落ち二度目の大腿骨骨折。今度は左足。おまけに初医療過誤にあう。三重県津市の小山整形外科にて。(ちなみにこのときの執刀医である小山院長は後に死去)
手術二回、リハビリ半年以上。シーズンを完全に棒に振る。東京移住。医療過誤の後にズタボロの左大たい骨を直してくれたのは鈴鹿にある村島整形外科の村島院長。数多くのレーサーを施術する

1998 初海外レース、フランスボルドール24時間に参戦。はじめての「ビジネルクラス」で優待される。チームはトップモト、というピレネー山脈ふもとに店を構えるプライベートチーム。初コート・ダ・ジュール、そして初24時間参戦、完走。
ちなみに同じレースに出ていたカワサキファクトリー井筒君は、エコノミークラスで渡仏したせいか17時間目にトラブルでリタイヤした。
年末よりモーターサイクリストにて執筆開始。

1999 初ワークスマシン(RVF750‘98)で鈴鹿8耐、初10位以内(9位with生見)
バイク小説集連載開始。全12話。原稿の多さに悩むも非常に楽しい。色々な場所で取材を行う。

2000 初連続8耐入賞(AC91with清成)9位。もて耐二位。初スペイン、初マスターバイク参加(ヘレス)。しかしファイナリストになれず。欧州ジャーナリストが異様に速いことを知る
梨本塾開校。エビスサーキットにて年2回行う。

2001 初バスフィッシング大会優勝in高滝湖。梨本塾月一開催に。
マスターバイク参戦、世界第3位(ヘレス)に。
初公式レースノーイヤー。しかし飛び入りの初草レースで優勝。(CBR600F4with同級生、実弟)
初バリ旅行

2002 梨本塾レーシングとして初もて耐参戦(with実弟、同級生)都合3チーム、スタッフ40名、応援バスツアーまで企画して総勢70名体制で盛り上げるものの、決勝では6位走行中に同級生の転倒により順位を落とす。
初韓国、初サッカーワールドカップ観戦、俳句の会「かいぶつ句会」に入会、東京都俳句大会で2000句の中からラスト10位にまで残る

2003 マスターバイクスペイン参加、世界第5位。
もて耐に梨本塾として出場、予選落ちして3耐を走るも、この年より導入された「ガソリンスタンド給油」など、明らかにそれまでのレースシーンから逸脱したルールによって、激しくフラストレイト。今後もて耐には出ないと決意。
もてぎロードレース選手権初出場、オープンマイスタークラス。久しぶりのスプリントレースでスタートに大失敗するも、最終ラップにトップを奪取し、劇的な優勝を飾る(withGSXR1000)。マシンはマフラーをかえただけのほとんどフルノーマル車両だった。
初ピアノレッスン開始
講談社より共著の「かいぶつ句集」が発刊される

2004 初フルマラソン挑戦(荒川市民マラソン)4時間半で完走。
初メキシコ釣旅行、初メキシコブラックバスゲット(53センチ)
マスターバイクスペイン参加 世界第7位(バルセロナ)
初アイルランド、BSB(ブリティッシュスーパーバイク)観戦


【公式サイトスタンダードスピードについて】
・PC歴の浅い私にとって『パソコン』と『インターネット』というキーワードは同じではないものの、ほぼ一対のものだ。1999年当時バイク小説集という小説をモーターサイクリスト誌に書いていて、その原稿量が月に400字詰め40枚程度だった。これをファックス送信すると約40分かかる。宅急便の方が早いのではないかと何度か思ったことがあるほど、かったるい作業だった。その後PCを買い我が家にもグローバリゼーションの波が押し寄せ、40枚分の原稿はたった1分足らずで送信された。これにはまいった。バイクの世界では何かが超飛躍的に進化することは少ない。しかしこの通信速度の進化は本当に私にとって超進化だった。しばらくして早速ホームページを開設しようということになるのだが、商用にする気はまったくなかった。それよりも今まで接したことのない色々な人たちと『交信』できれば面白いと思った。コンピューターの師匠にその旨伝えると『じゃあソフトなんか使ってHP作らずに、HTMLを学んで自分でプログラムを組みましょう』と言われる。いい機会だと思い、その師匠に聞き、本を買い、二週間ほどでHPをアップしたのがこの場所だ。当時(1999年10月)はまだここまで整理されておらず、適当にGEOBOOK等を並べただけだったのだが、そこに集ってきてくれた顔も知らない人たちとの『交信』は非常に緊張感溢れ、面白いものだった。まるでテレクラのようだな、と苦笑したのをよく憶えている。今(2001年11月)ここに集ってきてくれる人は本当にたくさんいて、その中で仲間が出来たり或いは恋愛が生まれたりと、様々な歴史が作られつつある。そのキッカケが『スタンダードスピード』だった、というのはすごく喜ばしいことだ。私はこれからもまったく知らない人との緊張感ある『交信』を続けていきたいと思う。
2001-11 梨本 圭


ということを書いてからすでに3年の月日が流れ、その間、公私共に実に様々なことがあって(上の方の“酒”の好みに焼酎が加わったことなど、ほとんどどうでもいい変化だが、実はそれが象徴するような変化、いわゆる“オヤジ化”が加速している…)それでもまだこのサイトは続いている。ロクに更新もしていないこのサイトで20万件を越えるヒットなど、開いた当初(5年前!)は考えられなかった。ただ、作成当初の目的であった「今まで出会ったことのない人たちとの交流」という部分は若干薄れ、現実の場で出会った人たちとの交流をより深める場となった。協力者を得て毎月放映されている梨本塾ムービーなどはその典型だが、俺自身のインフォメーションではなく、俺が作った場所から発せられるみんなからの分かりやすいメッセージや走りを情報として流すことが、ほとんど存在意味となっている。また、名詞代わりという部分も出てきてしまったため、例えば梨本塾の打ち上げの席で話すような口調で書き込むことは出来ない。多分、カキコをしてくれる人たちの意識も家族友人のような私的なものから、ある程度公的なものに変化した。
個人的には、3年前に書いたような、こういう場所で得られるネットワークへの期待感というのもほとんど失せた。有名税と言われる言葉では片せないほどの誹謗中傷の雨あられ、顔の見えないもの同士の罵りあいなど「目の前にいたら張り倒してやりたい」ということがインターネット上ではあまりに多いが、そういう場所で沸き起こった出来事は留まることを知らず膨張し続け、対象を食い潰すまでけして止まらない。不運なことにその対象となった場合に存続させるためには「この場での収束」を試みるしかないわけで、それはつまり黙るか悪くもないのに謝罪するか、もしくは無尽蔵に現れる相手を徹底的に追い込んで叩き潰すか、しかない。しかしそんなものは現実の場における一発の「乾杯」「ピースサイン」「ドリフト走行」「体験談」「直談判」「喧嘩」に比べれば、あまりにネガティブで、まったく創造性のないスタンスでしかないのだが、現状は、あらゆるサイトの管理者が誹謗中傷にビビっている。まるでウィルスのように感染してしまうひどい言葉の威力が、特に日本では無視できないほど大きくなってしまったからだ。もちろんそれらは、いくつかの無視できない事件へと発展したものもある。
だが、顔の見えない相手をネット上で罵ることで得られるものなど、俺にはない。
また、そういう相手に何かを与える義務もない。
何かを言いたい、或いはしたい人は、他者など関係なく実行するはずだ。そういうことをしようともせず文句ばっかり言っている人たちの言葉を聞くことは、俺には出来ない。
今後は、自分にとってのみ楽しい情報をさらに徹底的に流したいと思う。
2004/10/01 梨本 圭


2004年4月、メキシコ、レイクエルサルトにて。
今まで知り合ったすべての皆さん、元気ですか?俺はなんとかやってます。
私信、伝心、そして無心等、お便りはコチラへ。ちゃんと読んでます。
Std_spd@hotmail.com

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